2020年8月9日 主日礼拝(朝・夕拝)説教 「開け」
聖書―マルコによる福音書7章31~37節
(はじめに)
今日お読みしました聖書の箇所には、イエスさまがティルスの地方からデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖に来られたことが書かれていました。もし、聖書の後ろに付いている地図などをご覧になりますとお分かりになると思いますが、その旅というのはわざわざ遠回りをしたような、廻り道をしたようなコースになっているということです。そのようなことを知る時にイエスさまの旅、イエスさまの歩みというものはどういうものであったかを考えることができます。私たちは旅、それも人生の旅ということを考えますと、できる限り、最短コース、速くて、順調に、ということを願うのではないかと思います。けれどもイエスさまの歩みというのはそれとは違うのです。皆さんの中で、自分は人と比較すると、どれほど廻り道をして生きてきただろうか。何と無駄な生き方をしてきたのだろうか、と自分の過去を振り返って嘆いてみたりする方があるかもしれません。しかし、イエスさまという方こそは廻り道を歩まれる、私たちと一緒に歩まれる、そういう方であるということをおぼえていただきたいと思うのです。自分の人生を顧みて、歩みの鈍い、決して順調ではなかった、たとえそういう人生であったと思っても、そこに主がいてくださった、歩んでくださった、ということをおぼえていただきたいと思うのです。どんなことがあろうとも、そこに主がおられる。そのことを信じて歩むなら、その歩み、その人生の旅は無駄ではない、無意味ではないのです。そして、これからも私たちと一緒に歩んでくださることを信じてまいりましょう。
(聖書から)
ガリラヤ湖畔に戻られたイエスさまのところに人々がある人を連れて来たことが書かれていました。「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った」(32節)。耳が聞こえない、そして、舌の回らない人、その人の友人たちでしょうか?家族でしょうか?彼らがイエスさまのところにこの人を連れて来た、ということです。そして、この人の上に手を置いてくださるようにと願った、ということです。
この耳が聞こえず、舌の回らない人、この人はそのことで悩み、苦しんでいたのでしょうか。それを知って、友人でしょうか、家族でしょうか、そのことについては分かりませんが、この人のことをイエスさまのところに連れて行けば何か道が開かれるのではないか、と考えたのではないかと思います。手を置いてくださるようにお願いした、というのは、イエスさまにこの人のことを祈ってほしい、あるいは耳のこと、舌のことで癒してほしい、ということだったのでしょうか。私たちもこの人たちに倣いたいと思います。ぜひ、イエスさまのもとへ、イエスさまと出会ってほしい。そういう祈りを持ってイエスさまを、この福音を私たちの出会う人たちに伝えていきましょう。
さて、そういう彼らの願いをイエスさまは受け止めてくださいました。33節にはこのように書かれています。「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」。イエスさまは何をなさったのでしょうか?そのことを見ていきますと、まず、イエスさまはこの人だけを群衆の中から連れ出した、というのです。イエスさまは彼らの願いに応えて、この人を癒されようとしたのでしょうか。そうであるならば、群衆の前で、みんなが見ているところで癒しをなさる方がイエスさまのことがみんなに知られて、イエスさまは力あるお方だ。この方はどういうお方なのだろう、と福音を伝える上でも良い効果をもたらすことに、宣伝になったと考えられるのですが、イエスさまはそのようにはなさいませんでした。群衆の中から連れ出し、この人と一対一になった、ということです。
イエスさまと一対一になる。このことはとても大事なことです。信仰というのは、今、このようにして、教会にみんなで集まっているように、私たちという面と、もう一つ、私という面の両方が大事です。ある牧師先生は言われました。十字架の形はまさにそのことを表している。十字架の横の木は私たち、お互いの関係ということ。そして、十字架の縦の木はイエスさまと私の関係。この両面があっての信仰なのだ、というのです。
イエスさまは耳が聞こえず、舌の回らない人と一対一、十字架の縦の木の関係、個人的な、人格的な関係を求められたのです。イエスさまはこの人に何をなさったのかというと、指をこの人の両耳に差し入れ、唾を付けてその舌に触れられた、ということです。これは当時の医療行為であるとか、魔術的な行為と思われる行為です。私が思いますのは、これらのことそのものに効果があるというわけではなくて、これを行うことによって、今、私はあなたを癒します、ということを示されたのではないかということです。そして、この後にイエスさまはこのようなことをなさっています。「そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である」(34節)。イエスさまは天を仰いだ、ということです。天というのは神さまがおられるところを意味します。ですから、天を仰いだ、というのは、イエスさまが神さまを見上げられた、ということです。そして、深く息をついた、ということです。この深く息をついた、という言葉、新しい聖書の翻訳である聖書協会共同訳では「天を仰いで呻き」となっています。新共同訳聖書で深く息をつく、という言葉が呻く、と訳されています。
呻く、という言葉、その言葉が出て来る聖書の箇所を読んでみたいと思います。ローマの信徒への手紙8章26節です。「同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。ここに出て来る「“霊”」というのは、聖霊、神さまの霊ということです。聖霊は弱い私たちを助けてくださるとあります。私たちがどう祈ったら良いか分からない。その時、聖霊が言葉に表せないうめきを持って執り成してくださる、というのです。
私たちもどう祈ったら良いか分からない。何を祈ったら良いか分からないことがあります。またあまりにも心が打ちひしがれて、自分では祈れない、ということもあります。そういう私たちにとって、この聖書の言葉は慰めであり、励ましです。どう祈ったら良いか分からない、祈れない。そういう私たちのために聖霊が言葉に表せないうめきを持って執り成してくださるというのです。ある先生はこう言われました。これは私たちのためにイエスさまご自身がまず、祈ってくださっているということだ、というのです。
ですから、天を仰いで息をつかれた、呻いたイエスさま、それはイエスさまが出会ったこの人のために祈ってくださった、ということではないでしょうか。そして、主はこの人にこのように言われました。「エッファタ」。これはアラム語で「開け」という意味であると書かれています。開け。このイエスさまの祈りにより、この人の閉じられていた耳が開かれました。閉じられていた舌が開かれました。そのことが次の35節に書かれています。
「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」。この人が癒されたということです。ところが、せっかくこんな素晴らしい出来事が起こったのに、この後の箇所を読んでみますと、こんなことが書かれています。「イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」」(36、37節)。
イエスさまはこの出来事を誰にも話してはいけない、と口止めされました。なぜでしょうか?けれども、イエスさまが口止めすればするほど、人々はこの出来事を言い広めた、ということです。そして、これを伝え聞いた人たちはこのようなことを言ったのでしょう。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる」。
イエスさまが口止めするように言われたのに、それとはまったく正反対にイエスさまのなさった癒しの出来事が人々に言い広められていったことをどのように思われたのでしょうか?イエスさまが口止めされ、望んでおられなかったことが人々に伝わっていった。でもイエスさまのなさることは何と素晴らしいことか伝わったのだから、これはこれで良かったのではないか。そういうふうに私たちは考えるでしょうか。しかし、イエスさまはこのことを快くは思っておられなかったのではないかと思います。なぜなら、イエスさまが本当にお示しになりたかったことがむしろ、このことによって知られなくなってしまったからです。
(むすび)
イエスさまが言われた「エッファタ」、「開け」ということ、そのことによって耳が聞こえず、舌が回らなかった人の耳が開かれ、舌が開かれた。つまり、耳が聞こえるようになり、話すことができるようになった、という癒しが起こったわけですが、イエスさまがなさったことはそれ以上のことであったのです。それはどういうことかと言いますと、この人はイエスさまの言葉を聴く耳を持ったのです。イエスさまの言葉を語る舌を持ったのです。けれども、今日お読みしました聖書の箇所からはそのことは何も書かれていません。これはとても残念なことです。この人が何を聴き、何を語る人になったのか。イエスさまとの出会いによって新しい人生を生きる者となった。そのことこそが最も大事なことなのです。
イエスさまは一人の人のために天を仰いで呻いた、とありました。主は神さまを見上げ、この人のために祈ったのです。「“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださる」。このことによって、耳と舌が開かれただけでなく、神さまを受け入れる心が開かれたのです。主は今、私たちにも言われます。「エッファタ」、「開け」。神さまを心に受け入れ、新しい人生を歩んでまいりましょう。
祈り
恵み深い天の父なる神さま
今日は一人の人がイエスさまと出会った聖書の箇所から聴きました。イエスさまは天を仰ぎ、呻いた、とありました。何を祈ったら良いのか分からない、また祈れないでいるような私たちのためにご自分が神さまに執り成してくださいます。
耳が聞こえず、舌が回らなかった人がイエスさまの「開け」という言葉によって癒され、聴く者、語る者になりました。そして、イエスさまの言葉を聴き、語る者とされました。私たちは何を聞き、何を語っているでしょうか。イエスさまに対して心が、そして、耳が、口が閉じられてはいないでしょうか。どうか、私たちにも「エッファタ」、「開け」とお語りください。開かれた心で神さまを愛し、人を愛し生きる者としてください。
私たちの救い主イエス・キリストのみ名によってお祈りします。 アーメン
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